Together Through Life

 

これで駄目なら

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カート・ヴォネガット、円城塔訳『これで駄目なら 若い君たちへ-卒業式講演集』を読んだ。
アメリカでは大学の卒業式に著名人を講演に招くことが多いらしく、中でもヴォネガットは人気だったらしい。確かに軽妙でどこかシニカルでありながらも温かみある語り口は、彼の小説同様心に沁み、これから社会へと巣立つ若者の心にしっかりと残るものだろうと思う。
ヴォネガットの語り口は確かにユーモアに溢れ毒っ気もあり、話もあちこちに飛ぶ。でも、確かにそこには真っ当な素直さ、現実を当たり前に見る誠実さがある。講演の初めか最初には必ず「君たちが大好きだ。心から」と言った言葉も口にされ、これから社会に巣立つ若者の背中を温かく押してくれる。
「これで駄目なら」という言葉はヴォネガットの叔父さんの言葉で、幸せに暮らしていながらそれに気付かずにいるということを避けるため、時には立ち止まって自身に問いかける言葉「これで駄目なら、どうしろって?"If this isn't nice, what is?"」から採っているらしいが、この言葉もいかにもヴォネガットらしく、僕も時には立ち止まって自分に問いかけてみよう、そんな人生にしようと思える。

 

勉強の哲学

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千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために』を読んだ。
勉強とは自分の今置かれている環境=コードの「ノリ」からいったん客観的に距離を取り、別の環境へと脱コード化することだと。そのために著者は「ツッコミ」=「アイロニー」と「ボケ」=「ユーモア」という手段を提示する。当たり前と考えられているその場の「ノリ」をアイロニカルな視点からツッコミを入れることによって一時的にその場の「ノリ」から浮き、自覚的な「ボケ」によって他環境の「ノリ」を獲得していく。それが勉強だと。なかなか面白い。
けれど、このようなステップは少なからぬ人たちがすでに実践していることではないかと。学問の勉強に限らずに言えば、例えば趣味(映画でも音楽でも釣りでも良いが)なんかでは、少なくとも僕はそのような段階を経てきた。
そういった意味ではあまり新鮮な勉強論ではなかったけれど、著者としては自身のベースであるフランス哲学の実践としての勉強論というたくらみがあったと思えるし、哲学や思想をそうやって現代社会の問題解決や若い人たちの成長のために実践的に利用していこうという取り組みには以前から共感できる部分はある。ただ僕としては学問や趣味の知見を深め、広めるという方法論をフランス哲学的に語るという逆ルートの読み方として面白かったかも知れない。

 

最愛の子ども



松浦理英子『最愛の子ども』を読んだ。寡作の作家らしく前作『奇貨』から4年ぶりの新作長編。
著者はデビューからその形こそ変えてはいるが一貫して性的、肉体的、精神的な繋がりを従来の固定観念から切り離し、性器中心主義から離れ、恋愛中心主義からも離れ、種中心主義からすら離れてきた。それでいてそこはかとない性愛、セクシャリティの関係性を描き続けてきた。今作でももちろんそれは引き継がれ、さらにこれはもう驚くべき傑作の域に達しているのではないか。
描かれるのは高校2年生から3年生になる時期の女子高校生たち。語られるのは彼女らの中にいながら疑似家族として父、母、王子様を演じ、演じさせられる3人で、語るのはそんな「わたしたちのファミリー」を含む「わたしたち」。「わたしたち」にはそれぞれ名前も性格も与えられてはいるけれど、物語の中に「わたし」は存在しない。つまり、一人称複数形のまま「わたしたちのファミリー」が語られ、空想され、妄想され、ときには捏造さえされる。
だから、「わたしたちのファミリー」が擬似であるからこそその繋がりが弱く儚いのと同様、語り手である「わたしたち」もその繋がりは弱く儚い。高校生活という一瞬の中でしか繋がれず、解体を前提とした共同体。でも確かにそこには儚くとも弱くとも繋がりはあり、繋がりの中には愛があった。
これから社会の中で生きていく上で、「わたしたち」は解体され、それぞれの「わたし」となってマジョリティの共同体へと属していく。その前段階のあの時代だからこそ繋がれた儚くて弱くてみじめで、ときには孤独なマイノリティの共同体の愛おしさ。素晴らしい。

 

きみは赤ちゃん

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川上未映子『きみは赤ちゃん』を読んだ。著者が経験した妊娠から産後1年間を描いた出産・育児エッセイ。
勢いに任せて(ばかりでもないんだろうけど)書かれる文体はまさに勢い抜群で、まずこういう描き方が個人的には好き。内容についてもannやallenの当時のことを思い出しながら読めて、時に笑い時に泣きながら楽しく読める。んだけれど、やっぱり僕はパパなわけで、妊婦生活の壮絶さとか産後クライシスのこととか、やっぱり正直ピンと来なくて、それが申し訳ないような仕方ないような、そんなどっちつかずな立場に追い込まれる。ホルモンバランスの崩れから来る夫婦の危機(夫への憎悪)とか、ドキドキする(今更)。
それでもやはり全体を通して(特に後半)生まれてきた子供への愛に満ち溢れていて、どうしてこんなに愛おしいと思えるのか不思議なくらい愛おしい我が子と過ごす一瞬一瞬を大切にしたい気持ちも溢れていて、やっぱりこれはパパも読むべきとても素敵なエッセイだと。読んで良かった。

 

ゲンロン0 観光客の哲学

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東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』読了。
「ゲンロン」は東浩紀が主催する会社の思想誌だが、この『0』は東の単著として発表された、彼の思想の「集大成にして新展開」になるという。
なるほど確かに『弱いつながり』で提示された「観光客」という概念がより発展的に、実践的に追求されている。
ここでも東浩紀は『一般意志2.0』同様、いったんルソーに立ち返る。つまり、人間はそもそも人間など好きではなく、社会など作りたくない。でも現実には社会を作る。つまり公共性を持つ。
そこから始まり、ヴォルテール、カント、シュミットを引き、ヘーゲルに展開する。人間はなぜ人間を好きでもないのに社会を作るのかという問いに対する解答として、ヘーゲルは、人間は家族と離れ、市民を経て国民になることで初めて精神的成熟に達する、人間の最高の義務は国家の構成員であることであると答えた。ただこの一定方向への単線的なパラダイムではもはや現代の世界は語れない。
著者は現代をナショナリズムとグローバリズムが二層化して混在する世界とし、ヘーゲル的回路とは別の回路として観光客=郵便的マルチチュード=誤配=憐みを提唱する。
ここですべて書くと結構大変なので省略するけれど、他にも色々と過去の哲学者やネットワーク理論なんかを駆使して掘り下げられる観光客の哲学へと迫る理路は圧巻で、知的探求心に満ちていて、読んでいる方も興奮させられる。
その後の第2部で観光客の哲学の課題として挙げられる第4のアイデンティティー候補として「家族」を(まだ荒削りながらも)提案するところも東浩紀らしく、またこういうところが個人的に共感できる部分でもあるんだけれど、一番腑に落ちるのはやはり最後のドフトエフスキー論ではないか。
僕としても昨今の安保法案やら森友学園やら加計学園やら共謀罪やらの問題で、国会の茶番、デモの無力さ、マスコミの薄っぺらさに辟易し、危うく無関心のニヒリスト=スタヴローギン=イワンになりかけていたところを救われた思いでいる。
不能の父であること。子として死ぬのではなく、親として生きること。
まだこの世界との接し方を具体的に掴めたわけじゃない。でもある種の姿勢は、態度は分かりかけてきた気がする。

 

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