Together Through Life

 

風立ちぬ



宮崎駿監督『風立ちぬ』を観てきた。
率直な印象としては、いよいよ宮崎駿はここまで自身を曝け出してきたか、ということ。そして、宮崎駿監督じゃない他のジブリ作品とこうまで奥深さや重厚さが違うのか、と。
まず夢の中のシーンや関東大震災の描写が純粋にアニメーションとして素晴らしい。アニメーション映画的ダイナミズムに溢れていて、こういうのを観るとやっぱりもう一度ファンタジーを撮ってもらいたくもなる。
そして、奥深さや重厚さが滲み出てくるのは、宮崎駿自身が矛盾を孕み、それを充分に自覚しながらもずっとずっと分裂したまま葛藤し続けているからだ。戦争は嫌いだけれど戦闘機や兵器は大好き。パズーはシータと一緒じゃないと飛べないし、ポルコ・ロッソも豚じゃないと飛べない。サンとアシタカはそれぞれ違う場所に帰っていくし、宗介は母なる胎内でしか冒険に出られない。
そうやってこれまでずっと自身の内部での相克を垣間見せてきた宮崎監督は、この作品で自己批評的に主人公堀越二郎を描き出してしまった。
堀越二郎は天才的設計技師で、極端に言えばほとんど夢を追うことにしか興味がない。自身の夢の行く末が大量殺戮であろうとも、(少なくとも描写としては)それほど葛藤して悩んでいるようには見えない。でも、いや、だからこそ堀越二郎=宮崎駿にとって愛する女性、支えてくれる女性は必要となる。菜穂子が「美しいところだけ」見せようと病と闘いながら二郎を支えようと、二郎=宮崎駿は「愛している」とさえ言ってあげない。ただ「きれいだよ」としか言わない。
夢を追って生きるには犠牲を強いなければならない。「美しいところだけ」見せてくれる女性に、愛してるとも言ってやれない。大いなる母性の中でしか飛べないし、冒険に出られない。さらにはその夢すら、思い描いていた形で羽ばたいてくれるとは限らない。曝け出してしまおう。僕は、弱い。
だからこの作品には宮崎駿晩年の傑作だという声と同時に、相変わらずの女性差別的思想だという批判も多いのだと思う。
でも、宮崎駿自身、そんなことはもう重々承知なのだと思う。
『風立ちぬ』で、宮崎駿は批判など承知の上で自身の内面全てを曝け出し、同時に自身の天才的アニメーション映画監督としての実力もすべて注ぎ込んだ。夢の中のシーンのなんとファンタジックなことか。関東大震災のなんともののけ的おぞましい迫力ある描写のことか。病に伏せる菜穂子の横で手をつなぎながらもタバコをふかしてしまう二郎と菜穂子の、その後ろ姿のなんと儚く美しいことか。水がさざめく、草木がそよぐ、雲は流れる。帽子や日傘は飛ばされ、紙飛行機が舞う。そして、零戦が疾風のごとく飛ぶ。作中ずっと吹いているその風は、観ている者にまるで体感しているような圧倒的描写で迫ってくる。
自身はこういう人間で、でもこういう作品を創れる。それを曝け出し、自己批評とともに自分の作り出した作品=零戦の末路を憂う。アニメーションの今後を、憂いている。だからこそ堀越二郎の声優に庵野秀明を抜擢したのではないか。堀越二郎=宮崎駿=庵野秀明であり、アニメーション界の先輩から後輩への、自身の全てを注ぎ込んだ作品によるメッセージではないかと考えるのは、少々行き過ぎだろうか。
このような作品を世に問うてしまってから、宮崎駿は次に何を撮るのだろう。まったく、まだまだ僕は72歳の天才から目が離せない。
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