Together Through Life

 

ゼロ年代の想像力



宇野常寛『ゼロ年代の想像力』読了。
1978年生まれという非常に若い批評家の2008年の著作。東浩紀以前と以降の批評の停滞に鼻息荒く怒っている。
曰く、大きな物語が終焉を迎えたあとに時代を覆った不確かな空気、もはや大きな物語に期待出来るはずもない世界に東浩紀が登場し動物化するポストモダンを唱えたまでは良かった。でも、結局東浩紀もセカイ系に陥ったまま新しい想像力を示せないでいる中、著者はエヴァンゲリオンの碇シンジの「世界は何も示してくれない=引き蘢る」という図式はすでに古くて、今や世界が何も示してくれないことは前提となった新しい世代は、それでも「敢えて」何かを決断しなければ生き残れないという「決断主義」をバトルロワイヤル的に生きている、それは2001年の「9.11」及び小泉構造改革以降そうなのに、ゼロ年代の想像力は東浩紀とその劣化コピーによる批評で留まったままで、批評は現在に完全に追い越されている、という、ねぇ、鼻息荒いです。
著者が繰り返し主張する「決断主義」は、ゼロ年代の文学、ドラマ、アニメ、ゲーム、マンガからたくさんの実例が出されて実証されていくのだけれど、その選択に恣意的要素は免れない。『スラムダンク』や宮崎アニメにまったく触れられていないところがすでに不自然だけれど、著者の主張は時に熱く、確かに時代はアーキテクチャの上に小さな物語が点在する世界で、それ故に排除の論理が働くバトルロワイヤル的社会を「決断主義」でサヴァイブしていかなければならないというのも分かる。
個人的に特に興味を惹かれたのが、高橋留美子を論じた章。東浩紀が美少女(エロ)ゲームで批評した「家父長的なマチズモに満ちた欲望とそれを嫌悪する自己反省が同居する作品」という主張に対し、そこに内在する自己反省がむしろマチズモを強化温存する「安全に痛い自己反省パフォーマンス」であると断じ、問題なのはその居直りの逃げ場となっているある種異様な「母性のディストピア」なのだと主張する。そして、それにもっとも意識的なのが高橋留美子なのだと。うん、これは面白かった。
宮藤官九郎を語るところなど批評としては熱過ぎる嫌いはあるけれど、表現と同じく批評も元気のない今、これくらい鼻息荒い方が面白いこともある。
次は『リトル・ピープルの時代』を読んでみよう。
Comments

Body

« »

08 2017
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
profile

telltell72

Author:telltell72
welcome!

archives
tweets
検索フォーム
counter