Together Through Life

 

死刑


森達也著『死刑〜人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』を読了。
著者はドキュメンタリーの映像作家であり、自身が言うように書き始める前は死刑制度についての知識をほとんど持たない。ただ、冒頭に引用しているドストエフスキーの文章からも分かる通り、当初からそれとなく廃止の考えは頭にある。
とにかく、日本国中のほとんどの人と同様、死刑制度について何も分からないところからスタートし、死刑に迫る3年間のドキュメンタリー(著者の言葉で言えば「ロードムービー」)。
だから、著者はとにかく話を聞く。確定死刑囚、元死刑囚、被害者遺族、支援者、弁護士、政治家、刑務官、教誨師…。そして、揺れ動く。著者自身の揺れがリアルに伝わり、僕も一緒に彷徨う。

死刑制度の存置か廃止かなんて、簡単に答えが出るものではない。なぜならそれは「人間が合法的に人間を殺すこと」を認めるか否かという極めて本質的な問いだから。
でも、考えなければいけない。著者が言うようにほとんど全ての人は死刑の当事者ではない。でも、日本という国が死刑という刑罰を法律で定めている限り、日本国民である僕たちは「死刑制度」の当事者ではあるからだ。だから、考えなければいけない。

あらゆる人々の話を聞いて理論を積み重ねてきた著者は、しかし最後に被害者遺族の「(加害者と)同じ空気を吸いたくない」という圧倒的台詞に言葉を失い、次第に理論を踏み越えて感情的に訴えていく。でも、それは仕方のないことじゃないかと思う。制度である限り理論的に廃止か存置かはどこかで線引きしなければならないが、人間の死を本質的に問う命題である限り感情は揺さぶられるし、それぞれの立ち位置によって結論は違ってくるだろう。

僕もこの本を読んだだけでは廃止か存置かだなんて結論にはまだ辿り着けない。
ただ、一つだけ確かなのは、死刑について、死刑制度について知らないまま安易に意見を言うべきではないし、安易に言われた意見(統計では国民の80%以上が存置派だというがそれはそれぞれが真剣に考えて導き出された答えだろうか)を扇情的に報道するメディアに操られてはいけないということ。
僕たちが死刑の当事者でない限り、被害者遺族の応報感情を楯にとって安易に死刑存置などと言ってはいけない。だから、よく言われる「自分の家族を殺した犯人を許せるのか」という言葉に対する答えはどれだけ考えても仮定の枠を出ないし、実際に殺された遺族の方の身には到底なれない。もちろん「自分の家族が冤罪で死刑にされても存置といえるか」という問いについても同様だ。
そういった死刑の当事者の気持ちをただ空想して物を言うよりも、自分が第三者であるという認識の下、きちんと考えて導き出された答えじゃないと意味はない。そして、死刑制度の当事者=死刑を現実に底から担っている僕は、そのことを直視して、その立場から考えないといけない。どれだけ想像力を働かせても、僕たちには被害者遺族の気持ちも確定死刑囚の心持ちも分かるはずはない。

ウダウダと煩悶しながら苦悩する著者の姿は、その正直さが胸に訴える。
ルポでもなく、ノンフィクションでもない。人間の本質に迫る秀逸なドキュメンタリー。

 

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